大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島地方裁判所 昭和36年(行)5号 判決 1961年11月29日

原告 池田浩 外二名

被告 広島労働基準局長

訴訟代理人 森川憲明 外四名

主文

原告らの本件訴をいずれも却下する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

原告ら訴訟代理人は、原告池田浩の請求の趣旨として「被告が最低賃金法第九条に基き定めた別紙記載一の決定はこれを取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決、また原告原田俊、同二井野博の請求趣旨として「被告が最低賃金法第九条に基き定めた別紙記載二の決定はこれを取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その各請求原因として次のとおり述べた。

一、原告池田は、広島市中広町七五五番地所在の株式会社精鋼社に雇われる従業員、同原田、同二井野はいずれも同市仁保町所在の三葉工業株式会社に雇われる従業員である。被告は最低賃金法第九条に基き、別紙記載の一および二の決定をなしその日付にそれぞれ公示した。その結果原告池田は別紙記載一の、同原田及び同二井野は同二の各決定にいう労働者に該当するので、その使用者と共に各決定の最低賃金の適用を受けるに至つたものである。

二、しかしながら、右各決定は次の理由で違法かつ著しく不当であつて取消さるべきである。すなわち

(1)  右各決定は憲法第二五条第一項、最低賃金法第一条、労働基準法第一条第一項に違反する。最低賃金法第一条は「賃金の最低額を保障することにより労働条件の改善を図りもつて労働者の生活の安定、労働力の質的向上……を目的とし」ている。したがつてこの最低賃金額は憲法第二五条の規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の賃金的具現に外ならず、最低賃金の決定は健全な社会通念によつて右の目的にそうよう客観的に決め得る性質のものである。労働基準法第一条も「労働条件は労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たす」ものでなければならないと明らかに規定しているのである。ところが、右各決定による最低賃金は一日金二二〇円(一の決定)及び一日金二三〇円(二の決定)であるが、これは月二五日位稼働するとして月収約五、〇〇〇円、したがつて年収約六〇、〇〇〇円の賃金である。しかしこれはわが国の物価水準、経済事情等からみてあまりに低額すぎる。現に失業対策事業の労務者でさえ日給三四〇円の支払を受けておる。さらに一般労働者の賃金平均は、年収にして昭和三〇年は一八五、五五五円、昭和三五年度は二五四、四二九円となつており、(昭和三五年二月経済企画庁の公式発表による)これと対比するならば前記最低賃金のごときは前者の三分の一、後者の四分の一にすぎない低水準なのである。このような低賃金の定めは「人たるに値する生活を営なむ」ための労働条件の改善と労働者の生活安定を図る前記諸法条の趣旨に違背するものといわなければならない。

(2)  右各決定は労働基準法第二条第一項、最低賃金法第三条に違反する。右各決定の基礎となつた業者間協定は使用者の間に一方的に行われたもので、労働者はこれに関与していない。これはILO二六号条約にいう「最低賃金は労働者及び使用者代表の参加する機関において協議の上決定する」との原則に牴触し、労働基準法第二条第一項の「労働条件は、労働者と使用者が対等の立場で決定すべきものである。」旨の規定に違反する。さらに、最低賃金法第三条によれば、最低賃金は労働者の生計費、類似労働者の賃金事業の支払能力の三点を考慮の基準としなければならないのに、右のように、使用者間で一方的に協定される結果、使用者側の利益に関係のある「事業の支払能力」だけが重視され、最も重要な「労働者の生計費」の点は無視されることになる。したがつてかような業者間協定を基礎とした右各決定は右法条にも違反する。

三、右の違法決定により、原告らは憲法、最低賃金法により労働者に保障される最低賃金請求権を侵害されるに至つた。労働者は最低賃金の決定により法定額以上の賃金の支払いを受ける。ここにいう最低賃金額は前述したように前記各法条の趣旨にそつた労働者の生活の安定点において客観的に定められなければならない。景気変動等により賃金が下降したとしても、労働者は少くとも右の合法的な最低賃金額以上の支給を受けることが期待でき、それでこそ法の目的が達せられるのである。しかるに本件のような甚しい低水準の人たるに値する生活もできないような最低賃金額を決定されたため、労働者である原告らは右の合法的な最低賃金請求権を奪われることになつた。すなわち、現在一日の賃金として、原告池田は金五八〇円、同原田は金五三〇円、同二井野は金六〇五円という低賃金に甘んじているが、これは違法な本件右各決定が原告らの現実の賃金決定の基礎となつているためである。

四、本件各決定に対し、最低賃金法は労働者たる原告らに異議訴願その他不服申立の権利を認めていないので、本件訴訟以外に適切な救済手段がない。又かりに原告らの支払を受ける現実の賃金が下降して本件各決定賃金額の線に接しなければ出訴できないとするならば、そのときには取消訴訟の六ケ月の出訴期間を失つて了う不当な結果になる。

五、よつて、原告池田は別紙記載一の、原告原田及び同二井野は別紙記載二の各決定の取消しを求めるため本訴に及んだ。

六、なお、原告らが本件各決定の公示前から前示各会社に雇傭せられていたことは認める。

被告指定代理人等は主文と同趣旨の判決を求め、その理由として次のとおり述べた。

原告らはそれぞれ本件各決定の取消を訴求し得る法律上の利益を有しないから本件各訴は不適法である。すなわち

一、本件各決定のような最低賃金の決定が行われた場合、使用者はその決定にかかる賃金額以上の賃金を労働者に支払うことを義務づけられ、もし労働契約で最低賃金額に達しない賃金が定められても、その部分は無効とされ、無効部分については最低賃金と同様の定めをしたものとみなされる(最低賃金法第五条第一、第二項)。このように最低賃金額の決定は強大な効力をもつが、ただその決定は、賃金の最低額を定めたに過ぎず、最高額については、直接的にも間接的にもこれを限定する性質の処分ではないから、これによつて具体的な義務を負担する者は使用者に止まり、労働者に対しては何らの義務をも課するものではない。むしろ賃金額について使用者を規制することの反射的な効果として労働者に利益を与えることになる。それゆえ、最低賃金の決定によつて労働者が権利ないし法律上の利益を害されることは全くあり得ない。

まして原告らは本件各決定当時、すでにそれぞれその主張の各会社に雇傭せられ決定にかかる最低賃金額以上の賃金を得ているのであるから、本件各決定の取消を求めるにつき法律上の利害関係を有しないことは明らかである。又原告らの賃金が本件各最低賃金決定により若干の影響を受けたとしてもそれは事実上のものにすぎずそれをもつて原告らの権利を侵害されたことにはならない。

二、原告らのいう意味における客観的に正当なるべき最低賃金請求権を労働者に保障している法律はない。最低賃金法は、低賃金労働者に一定額以上の賃金を保障するため賃金額の下限を規制するものに外ならず、すでに決定額を上廻る賃金額を得ている者は適用の対象外として、それらの者がいか程の賃金を得るかは労使の自治に委ねられるところであつて、法的に保障されているのは最低額と同額の賃金請求権のみにとどまる。したがつて原告らの主張はその前提を誤つている。

三、本件各決定がなされたことにより、その適用を受ける労働者のうち最低賃金額に達しない賃金を受けている者の賃金は、少くとも本件各決定額まで引上げられることになる結果、その適用事業所における賃金体系全体に事実上の影響を与えることは予想し得る。しかし、その影響は労働者に利益をもたらすことになつても、決して不利益を与えるものではない。従つて、原告らは本件各決定の存在により何等の不利益を受けるものではないことは明らかである。

四、なお、原告らの主張事実中一、の事実は認める。

理由

原告池田浩が株式会社精鋼社に雇われる従業員であり、原告原田俊、同二井野博がいずれも三葉工業株式会社に雇われる従業員であること、被告が、最低賃金法第九条に基き別紙記載一及び二の本件各決定をなし、各その日附に公示したこと、その結果原告池田浩が別紙記載一の、その他の原告らが、別紙記載二の各決定の適用を受けるに至つたこと並びに原告らが、本件各決定の公示前から、右各会社に雇傭せられていたものであることは当事者間に争がない。

最低賃金法により行政官庁の定める最低賃金の決定は、その適用を受ける使用者に対し、その決定にかかる最低賃金額以上の賃金をその雇傭する労働者に支払うことを義務付けるのに止まり、その適用を受ける労働者に対し何等の義務を課するものではない。その労働者の受ける具体的な賃金は、使用者との間における自主的な交渉において自治的に取決られるのであつて、その際労働者は決定にかかる最低賃金に達しない額で賃金を定められることはないという保障を受けることになる。従つて、労働者は、最低賃金の決定により法律上の保護を受けることがあつても、その権利或は法律上の利益を害せられることはないのである。

原告らは、本件各決定の公示前から、それぞれ前記各会社に雇傭せられ、本件各決定に定められた最低賃金額以上の賃金を得ている旨自認しているのであるから、本件各決定により法律上何等の影響も被むるものではない。もつとも、若し本件各決定において最低賃金が更に高額に定められていたとしたならば、或は原告らは右最低賃金に達しない賃金の支払を受けていた同一会社の他の労働者との釣合上、現在よりも高額の賃金の支給を受け得る可能性の生ずることは否定できない。しかし、それだからといつて、原告らが本件各最低賃金の決定により、その権利或は法律上の利益を害せられたものということはできない。

原告らは、最低賃金は労働者が憲法第二五条の規定する健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように、また労働者の生活を安定し労働力の質的向上を保障するために客観的に正当な範囲で定められるべきものであるから、労働者は右の趣旨における最低賃金請求権を有する旨主張する。なるほど、憲法第二五条及び労働基準法第一条、最低賃金法第一条の規定の趣旨に鑑みれば、すべての労働者のために健康で文化的な人たるに値する生活を営み得る程度の最低賃金が定められることが望ましいことであることは勿論である。しかし、残念ながら、我国経済の現状に照らして考えるとそれは一の理想論に過ぎず、原告らの主張する如き最低賃金請求権が労働者のために法律上保障されていることを認め得る制定法上の根拠は存在しない。従つて、本件各決定における最低賃金額が、右の理想に達しないからといつて、これにより労働者たる原告らがその権利を侵害せられたものということはできない。

被告が最低賃金法第九条に基きなした本件各決定が行政処分であることは明らかであるが、行政処分の取消を求めるにつき訴の利益を有する者は法律に特別の規定のない限りその行政処分により権利或は法律上の利益を害された者に限られる。しかるに、原告らは、以上に認定したとおり、本件各決定によりその権利或は法律上の利益を何等害せられるものではないのであるから、原告らが本件各決定の取消を求めるにつき訴の利益を有しないことは明白である。従つて原告らの本訴請求は、不適法として却下することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 松本冬樹 長谷川茂治 小島建彦)

(別紙)

一、昭和三六年二月二八日付、広島労働基準局最低賃金公示第四号

広島県輸送用機械器具製造業(東洋工業下請協力会)の最低賃金を

1 適用する使用者 昭和三六年一月一七日申請代表者東洋工業下請協力会賃金協議会会長吉田良信によつて行われた申請にかかる業者間協定の同日現在の当事者である使用者

2 適用する労働者 前号の使用者に使用される労働者

3 前号の労働者にかかる最低賃金額 一日金二二〇円

と定める。

二、昭和三五年一二月二七日付、広島労働基準局最低賃金公示第四二号

広島県輸送用機械器具製造業の最低賃金を

1 適用する使用者 昭和三五年一二月五日申請代表者東友会会長新谷徳蔵によつて行われた申請にかかる業者間協定の同日現在の当事者である使用者

2 適用する労働者 前号の使用者に使用される労働者

3 前号の労働者にかかる最低賃金額 一日金二三〇円

と定める。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例